呵自記

笑いとばすだけで、不幸も幸せになるのであれば、不甲斐ない哀れな自分を呵(わら)ってやりたくはないか? 時に目を背けたくなるような残酷なこの社会と大衆をアジってやりたいではないか?

割ともう真剣に選挙とかやめてランダムで政治家を選出した方がよくないですか?



静岡知事やリニアをめぐる騒動に辟易している。

 

リニア新幹線といえば、子どもの頃に図鑑でみた「ゆめのリニアしんかんせん」みたいなのでかっこいいなぁ〜いつか乗れるかなぁ〜!と思った記憶がひとしきりあり、

それがいまだ自分がいいおっさんになった年になっても完成してないことにも驚きだし、その主たる理由がなんか静岡県知事が水がどうとかいってずっと工事の許認可をのらりくらりと出していないということに起因してるにも驚きだ。

 

何兆円もの国家規模の巨大プロジェクトが、一個人の許認可の判断で進捗左右されているというのも、国が国なら命を狙われる可能性や膨大な賄賂や利権にももなるわけで、よくこんなの日本でまだ許容されてるなっていうレベルの話じゃないか?

 

そんでもって、「ワシはこの静岡の豊かな自然と水を守りたいんじゃあ!誰がなんと言おうとリニアの工事で犠牲になるかもしれんこの水を、その水で生まれる静岡の農家の野菜を、静岡の酪農家の牛たちを、豊かな水で生み出される様々な工業製品を、静岡のみんなが知恵と頭を振り絞って生み出したこの努力の結晶をいつまでも守りたいんじゃあ!」

 

みたいな強い信念があっていってるならまだ救われたものの、

 

「野菜をつくったり牛の世話をしたりものをつくったりしとるやつらは公務員様と違って知性が低いw」

 

とかの発言をオフィシャルな発言の場で失言しちゃって 、

 

「リニア開業延期で責任も果たしたことだし やめますね^^」

 

なんて言って辞めてくなんてすべてをバカにしてる話じゃない? え、じゃあ水は自然は? なんのために国家的プロジェクトはとまってたの?

 

こんなのが15年も知事やってたっていうのが驚き。

 

15年間もの間、「リニア工事を止められる俺最強☆ ほらっおまえら早く野菜に水やったり牛に世話しろよw! そこの作業員も、知性低いなりに頭でなくて手を動かしてがんばれよ〜w」みたいなことを思ってた人間がトップの県で15年間県民をやっていた皆さん、本当にお疲れ様でした。

 

というかそもそもこういう知事の失言やら失態やらの話って静岡の知事に限った話でなく、全国のあちこちであるよね。

 

結果を出せなければ選挙で判断されるみたいな話あるけど、実際選挙って普段露出したり業務に専念できたり権限もってたりする現役側がめちゃ有利なわけで、「まぁ他に良い選択肢があったんかはわからんが、とりあえずいまはちゃんと動いてるし働いてるわけだからとりあえず今の人に投票しとくか、他に候補に出とる数人とやらは全然しらんがな。」かみたいな感じで多くの人が現役候補に投票してなってるわけで、全然ちゃんとした選挙になってないやん。

 

そんでもって最近はやれ宗教法人からの支援がどうのこうのとか、やれ裏金がどうのこうのとかの問題でしょ? 民意とかじゃなくて、結局お金に余裕があって、人を動かせるような基盤を持つ人間が有利になってて、企業や宗教法人に選挙結果が食い物にされたりしてるのって本当に民主主義の選挙って言えるん? 実際選挙ってだいたい30%くらいしか投票率もなくて、70%の人が関与してなくて決まっとるわけだし。そんなんあれこれハックして悪用しようとする人間もでてくるに決まってるじゃん。

 

それなら完全にランダムで政治家を算出したほうがよくない? そもそも議員とかも別に能力が高いとかえらい人とかではなくて、代議士っていう名称があるように国民に代わって代わりに議論する人っていうのがベースなわけで、その原則に基づくなら金や支持母体をもってる人が有利ゲーよりも、様々な立場やの人たちがランダムで選ばれて議論に参加できる場の方がよっぽど民主主義の名前に近いフェアじゃない? 

そら宗教法人に人生を食い物にされて金も経験もない就職氷河期ワープアみたいなのが、自分の経験を活かして社会を変えたいと思っても、金も基盤もなくて政治の現場にたてる可能性が実質的にゼロだったら、「オラいっちょ社会変革のために元総理大臣でも暗殺してみっか!」みたいな発想になるって!

 

「政治なんて自分にはどうせ無関係、何も変わらないし、自分が政治にかかわる機会もありえない」。っていう人が多いから実際7割近くの人が選挙にもいってなくて、期間中に金かけて名前を連呼しまくった人間が勝つみたいなクソゲーになってるわけで、「もしかしたらあんたもわたしもいつかランダムで選ばれて政治家になることもあるかもしれないんだからちゃんと普段から自分が選ばれたらどうするか考えて生きていきさいよ」 みたいな方がよっぽど社会に良い影響を及ぼすんじゃないの?

 

実際、すでに陪審員制度だってそうやってランダムで選ばれた人間が「いち市民の代表としてこいつ死刑かどうすっか決めてくれ」みたいなのが許容されて運用されとるわけで、だったらランダムで選ばれた市民が「この街を、国をどうすっか選ばれたお前たちが決めてくれ」みたいなのも全然ありでしょ。

 

選挙に出て選ばれるのにも膨大な金が必要で、一度選ばれても次も選ばれるかわからないし落ちたらただの無職。収入ゼロ、みたいなのがあるから、政治家だって必死になって裏金つくったり、発想がやばい団体にもゴマすったりするわけじゃん。そんなの人間の性だし仕方ないよ。

 

だったら、ランダムで選ばれて任期も決まってすぱっと選ばれたり切り替わったりする方がよっぽど良くないか? どんな立場の人も平等に選ばれて政治に関わる機会があれば、特定の権力に癒着する必要もないし、必死に裏金を作る必要もない。企業グループの御曹司や政治家一族みたいな、そもそも人生で困ったことにも貧困にも一切無縁みたいな人にわざわざ高い報酬を払ってわざわざ普段かかわることのない貧困層の声に耳を傾けてもらって、政治家やってもらうよりも、所得が低い人でも選ばれてダイレクトに意見を反映できる可能性があって、一時的にも政治家としての報酬が得られる機会が平等にランダムであたえられることで人生が好転する可能性もある、みたいな設計の方が社会がより健全になるんんじゃない? 平等に誰でもひとり1回分投票する権利があるなら、誰でもひとり1回分当選する権利もあるのが本当の平等な民主主義なんちゃうん?

 

そんな能力関係なくランダムでわけわからん人間が選ばれてやって結果が出せんのかっていう話もあるけれど、

 

政治の世界じゃなくて民間企業でなら能力や結果を出した人間を昇給させるよりも、ランダムに選んで昇給させたほうが実は結果がでたみたいな説がイグノーベル賞受賞したみたいな事実もあるわけで、あながちまったくやばいことにはならないのではないか?

 

なぜ昇進はくじ引きで決めたほうがいいのか | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン) https://president.jp/articles/-/8652?page=1

 

実際、ちょっと調べてみたらくじで政治家を選ぶっていうのはロトクラシーと呼ばれる考え方としてなんとすでにあるみたいで、古代アテネ古代ローマ、中世のイタリアなどでは採用されていた制度で、近代の代表制民主主義が始まるまではこのような考え方が主流で、アリストテレスやルソーなどの思想家も、選挙は貴族政的(政治権力が少数の人々に集中している状態)であるのに対しくじ引きは民主政的だと主張していた考え方みたい。

 

そうやって考えてみると今の選挙制度ってめちゃくちゃ欺瞞じゃんな。

 

「選挙で公平に選ばれた代表が政治的意思決定を行う」なんて実情民主主義とはかけ離れてる実態なのに、「ほらっ!貧民の皆さん!これが平等なんですわ!w」みたいな顔してやがるのすごい悪意を感じる。よく考えられたものですよね。

 

 

はー このクソッタレな社会が少しでもよくなりますように。

所得の2.5%を喜捨したら人はもっと幸せになれる

 

多くの自己啓発本にはほぼほぼまずはあなたからgiveしろ、みたいなのが書いてある。

 

いきなりGiveしろとかいわれても、何を与えたらいいのか困る。そもそもGiveするほど余裕や中身がないから、そんな本にすがってるわけで、普通の人間はそんな簡単にGiveしろと言われたところでできない。かといってボランティアみたいなこともなかなかおっくうだ。

 

そしていい歳にもなると長い人生で培った能力や自分の思考を変えるのは難しい。与える習慣がない人間はそう簡単には人になにかを与えるということができないのだ。

 

Giveが必要だとわかっていてもなかなか変えられない自分にモヤモヤしていた。

 

ふと読んだ本にかいてあったイスラム教に関するくだりの中に「喜捨」という考え方があるのを知った。

 

喜捨とは惜しむ心なく,喜んで財物を施捨することの意味でイスラム教ではザカートという。

 

イスラム教の五行の一つで、困窮者を助けるための義務、ということで制度にもなっているらしい。

 

具体的に目安も決まってるらしい、それによると所得の2.5%を喜捨するという考え方だ。

 

所得の2.5%、月の所得が30万なら月7500円 払えなくはないし、かといってまったく負担にならないわけではないという絶妙なラインだ。

 

喜捨する、というとものすごい怪しい宗教チックな響きがあるけれど、この場合は特定の宗教法人や教祖に収めるのではなく、自分自身で見て感じて困っていると思う人に喜捨しなさい、その結果神からの恩恵がありますよ、ということだ。

 

「見返りを求めず、誰かのために喜んでお金を捨てる」 寄付とはちょっと違うこの喜捨の概念の考え方はとても良いと思った。

 

ある大学の調査によると人が最も幸せを感じる要素というのが、実はお金を持ったり、モテたり、自由であるということではなく、「他人のために何かをしてあげる」ことなんだそうだ。まさにGiveの概念である。

 

とはいえ普通は幸せ=金なので、直感的にはなかなか理解しづらいそのような人生論に宗教というプロトコルで導きを生み出す、世界宗教には数百年以上語り継がれるだけの叡智がやはりある。

 

なのでこの喜捨をGiveと捉えて運用することを考えてみる。

 

 まず喜捨をそのままの通り解釈して 所得の2.5%を寄付という形でGiveしても良い。世の中には様々な課題解決に挑むNPOや団体はごまんとある。普段は目にもとめない存在でも毎月予算を決めて喜捨となるとなるとそこには違った景色がある。あなたそのどこにでもお金を喜捨することができる、何か金銭的な見返りがあるわけではないが、喜捨により今まで自分がしらなかった社会課題と接点を持ちその進捗を知ることができる、それは何事にも代えがたい価値だ。

 

そして私たちはイスラム教ではないので、厳密にその通りでなくてもイスラム的な考え方を人生に取り入れて運用することもできる。

 

所得の2.5%を、惜しむ心なく喜んで財物を施捨することが喜捨なのだから、ようはそのままの解釈の寄付だけでなく、プレゼントやおごりや投資でさえも、包括的に自分が喜捨と定義できるものは喜捨というカテゴリにいれられるのだ。

 

寄付にとどまらず、友人や家族にちょっとしたギフトなんかを贈っても良い。誰かに飯をおごったりするのでもよい。クラウドファンディングだって喜捨ととらえることもできるだろう。

 

何か贈ったほうがいいのかなぁ、お金寄付して応援しようかなぁ、いやでもなぁ、もったいないかもだなぁ、あんまし喜んでくれないかも、いや損するかも、まぁやっぱり今回は見送るかみたいな逡巡が喜捨という枠組みであれば、システマチックに処理できる。

 

あなたはもう所得の2.5%を喜捨するということを人類が培ったプロトコルの導きで決めたのだから、そのプロトコルに従ってる限りお金はどう捨ててもすべて正解なのだ。

 

久しぶりに友達と会ったり、めでたいイベントがあったときに意外と男性は男性にものを贈ったりしない。 

若い独身の時は気が付かなかったけど、人と会うというのはとても大変なことなのだ、互いのスケジュールを調整し、それに合わせて仕事を調整して、家族との時間の調整して、移動して、ようやく人と会うということができる。

 

どんな理由があれ、相手であれ、有限の人生で自分に時間を割いてくれたそれだけでありがたいことだ。別になにかなくても人に会うたびになんか喜捨の一貫として贈り物を渡してしまえば良いのだ。何も情報や利益だけがGiveではない。

 

贈るか贈らないかの基準はなく、会う人には必ず何か渡すようにする。家やカバンの中に気の利いたものをいつもストックしておく。

 

紅茶、コーヒー、文房具、小さくて保管ができて気の利いたものはたくさんある。

 

1000円から2000円くらいで、気軽に贈れる喜捨ギフトを普段から探すようにすると街が楽しくなる。旅先で小物をみたり、いまんとこ誰にあげるかはわからないけどとりあえず喜捨消化のために買っとくかみたいな。状態になると世界を見る目が変わる。

 

こんなものもらっても嬉しいかなぁ、喜んでくれるかなみたいなのもない。これはギフトではなく喜捨なのだ。あげるしか選択肢がないので問題ない。

 

そしてこうしてGiveを喜捨プロトコルで運用するとそこからメリットが生まれる。

 

お酒を贈ればじゃあせっかくだし一緒に今度飲もうよという、話になるし、

 

本や映画を送れば次に会ったときに話すきっかけも生まれる

 

今自分がハマっているサウナハットをあげればじゃあ今度一緒にサウナでもと裸の付き合いになる

 

何をGiveすればわからないなら、まずはモノのギフトを喜捨するところからはじめる。それこそがいわゆるGiveするということなのだろう。

 

そしてそうでなくても喜捨の運用や考え方日常生活もずっと良いものにしてくれる。

 

日常生活ではチクチク傷つくちょっと損したと思うことが多々ある。例えば、楽しみにしていた予定がキャンセルになって、キャンセル料が発生した、自分だけセールや限定商品が買えなかった、せっかく買った製品や料理がぜんぜん期待外れだった。

 

小さなことだけどなんだかモヤモヤする。小さいだけに感情のぶつけどころがなく、こんなことにメソメソする自分の器の小ささにも嫌気がさして余計にずっと尾を引く。

 

そんなときはそれを喜捨枠に移せば解決だ。自分が捨てたことで誰かがその分負担が減って喜んで幸せになったということだ。そう考えたらすっきり。今月の喜捨枠予算も消化できた。万歳!

 

人生を豊かに、幸せにするには誰かに分け与える、Giveすることが重要だ。しかし、GIveといっても多くの人は何をしていいかわからず結果何も好転しないことがほとんどた。そこに人類の叡智である宗教の喜捨の概念を取り込み、所得の2.5%を毎月喜捨するプロトコルで運用するようにする。それだけでずっと人生が良くなる気がしないだろうか?

 

所得の2.5%を喜捨したら人はもっと幸せになれる

 

お試しを。

呵自記とは

人には心の中でそれを求めていてそれをするだけで時間の流れが変わるような気持ちになるものがある。

 

ある人には散歩だったり、キャッチボールだったり、スポーツだったり、趣味だったり。

 

なんだか時間が経つのがいつもより早いな、と感じるようなものだ。

 

そこにはあぁ、やりたくないけどやらなきゃ。。。というプレッシャーはないし、こんなことしてて意味あるのかな、恥ずかしいなぁという他人からの目もない。ただただ没頭だけが存在する。

 

そして不思議なことにそういう没頭できるなにかを通じて出会った出来事や人間というのはずっと記憶に残り他の人間関係よりずっと親密に継続的なものになれる。

 

そういうものを見つけられたら人生は幸せなんだと思う。

 

私にとってそれはなんだろう? と考えたらそれは自分の頭の中にある文章を書いて誰かに読んでもらうことのように思った。

 

同じような出来事でも楽観的な人と悲観的な人が存在していて、その違いは何かという分析をした実験で、楽観的な人とと不幸でない人は物事の説明の仕方が異なる、というデータが存在するそうだ。

 

有名な、コップに水が半分しかない、と言うのか、半分もある、と表現するかというものだ。

 

つまるところどんな出来事や事象もも説明の仕方次第では人は悲劇にも喜劇にもなりうるということだ。

 

これはなんて愉快ことなんだろうか。

 

笑いとばすだけで、不幸も幸せになるのであれば、不甲斐ない哀れな自分を呵(わら)ってやりたくはないか? 時に目を背けたくなるような残酷なこの社会と大衆をアジってやりたいではないか? この時間を忘れて没頭できる文章録で。

 

そんな思いを込めて文章を連ねる文章録を呵自記と名付けて初めて見ることにしたのでした。