呵自記

笑いとばすだけで、不幸も幸せになるのであれば、不甲斐ない哀れな自分を呵(わら)ってやりたくはないか? 時に目を背けたくなるような残酷なこの社会と大衆をアジってやりたいではないか?

所得の2.5%を喜捨したら人はもっと幸せになれる

 

多くの自己啓発本にはほぼほぼまずはあなたからgiveしろ、みたいなのが書いてある。

 

いきなりGiveしろとかいわれても、何を与えたらいいのか困る。そもそもGiveするほど余裕や中身がないから、そんな本にすがってるわけで、普通の人間はそんな簡単にGiveしろと言われたところでできない。かといってボランティアみたいなこともなかなかおっくうだ。

 

そしていい歳にもなると長い人生で培った能力や自分の思考を変えるのは難しい。与える習慣がない人間はそう簡単には人になにかを与えるということができないのだ。

 

Giveが必要だとわかっていてもなかなか変えられない自分にモヤモヤしていた。

 

ふと読んだ本にかいてあったイスラム教に関するくだりの中に「喜捨」という考え方があるのを知った。

 

喜捨とは惜しむ心なく,喜んで財物を施捨することの意味でイスラム教ではザカートという。

 

イスラム教の五行の一つで、困窮者を助けるための義務、ということで制度にもなっているらしい。

 

具体的に目安も決まってるらしい、それによると所得の2.5%を喜捨するという考え方だ。

 

所得の2.5%、月の所得が30万なら月7500円 払えなくはないし、かといってまったく負担にならないわけではないという絶妙なラインだ。

 

喜捨する、というとものすごい怪しい宗教チックな響きがあるけれど、この場合は特定の宗教法人や教祖に収めるのではなく、自分自身で見て感じて困っていると思う人に喜捨しなさい、その結果神からの恩恵がありますよ、ということだ。

 

「見返りを求めず、誰かのために喜んでお金を捨てる」 寄付とはちょっと違うこの喜捨の概念の考え方はとても良いと思った。

 

ある大学の調査によると人が最も幸せを感じる要素というのが、実はお金を持ったり、モテたり、自由であるということではなく、「他人のために何かをしてあげる」ことなんだそうだ。まさにGiveの概念である。

 

とはいえ普通は幸せ=金なので、直感的にはなかなか理解しづらいそのような人生論に宗教というプロトコルで導きを生み出す、世界宗教には数百年以上語り継がれるだけの叡智がやはりある。

 

なのでこの喜捨をGiveと捉えて運用することを考えてみる。

 

 まず喜捨をそのままの通り解釈して 所得の2.5%を寄付という形でGiveしても良い。世の中には様々な課題解決に挑むNPOや団体はごまんとある。普段は目にもとめない存在でも毎月予算を決めて喜捨となるとなるとそこには違った景色がある。あなたそのどこにでもお金を喜捨することができる、何か金銭的な見返りがあるわけではないが、喜捨により今まで自分がしらなかった社会課題と接点を持ちその進捗を知ることができる、それは何事にも代えがたい価値だ。

 

そして私たちはイスラム教ではないので、厳密にその通りでなくてもイスラム的な考え方を人生に取り入れて運用することもできる。

 

所得の2.5%を、惜しむ心なく喜んで財物を施捨することが喜捨なのだから、ようはそのままの解釈の寄付だけでなく、プレゼントやおごりや投資でさえも、包括的に自分が喜捨と定義できるものは喜捨というカテゴリにいれられるのだ。

 

寄付にとどまらず、友人や家族にちょっとしたギフトなんかを贈っても良い。誰かに飯をおごったりするのでもよい。クラウドファンディングだって喜捨ととらえることもできるだろう。

 

何か贈ったほうがいいのかなぁ、お金寄付して応援しようかなぁ、いやでもなぁ、もったいないかもだなぁ、あんまし喜んでくれないかも、いや損するかも、まぁやっぱり今回は見送るかみたいな逡巡が喜捨という枠組みであれば、システマチックに処理できる。

 

あなたはもう所得の2.5%を喜捨するということを人類が培ったプロトコルの導きで決めたのだから、そのプロトコルに従ってる限りお金はどう捨ててもすべて正解なのだ。

 

久しぶりに友達と会ったり、めでたいイベントがあったときに意外と男性は男性にものを贈ったりしない。 

若い独身の時は気が付かなかったけど、人と会うというのはとても大変なことなのだ、互いのスケジュールを調整し、それに合わせて仕事を調整して、家族との時間の調整して、移動して、ようやく人と会うということができる。

 

どんな理由があれ、相手であれ、有限の人生で自分に時間を割いてくれたそれだけでありがたいことだ。別になにかなくても人に会うたびになんか喜捨の一貫として贈り物を渡してしまえば良いのだ。何も情報や利益だけがGiveではない。

 

贈るか贈らないかの基準はなく、会う人には必ず何か渡すようにする。家やカバンの中に気の利いたものをいつもストックしておく。

 

紅茶、コーヒー、文房具、小さくて保管ができて気の利いたものはたくさんある。

 

1000円から2000円くらいで、気軽に贈れる喜捨ギフトを普段から探すようにすると街が楽しくなる。旅先で小物をみたり、いまんとこ誰にあげるかはわからないけどとりあえず喜捨消化のために買っとくかみたいな。状態になると世界を見る目が変わる。

 

こんなものもらっても嬉しいかなぁ、喜んでくれるかなみたいなのもない。これはギフトではなく喜捨なのだ。あげるしか選択肢がないので問題ない。

 

そしてこうしてGiveを喜捨プロトコルで運用するとそこからメリットが生まれる。

 

お酒を贈ればじゃあせっかくだし一緒に今度飲もうよという、話になるし、

 

本や映画を送れば次に会ったときに話すきっかけも生まれる

 

今自分がハマっているサウナハットをあげればじゃあ今度一緒にサウナでもと裸の付き合いになる

 

何をGiveすればわからないなら、まずはモノのギフトを喜捨するところからはじめる。それこそがいわゆるGiveするということなのだろう。

 

そしてそうでなくても喜捨の運用や考え方日常生活もずっと良いものにしてくれる。

 

日常生活ではチクチク傷つくちょっと損したと思うことが多々ある。例えば、楽しみにしていた予定がキャンセルになって、キャンセル料が発生した、自分だけセールや限定商品が買えなかった、せっかく買った製品や料理がぜんぜん期待外れだった。

 

小さなことだけどなんだかモヤモヤする。小さいだけに感情のぶつけどころがなく、こんなことにメソメソする自分の器の小ささにも嫌気がさして余計にずっと尾を引く。

 

そんなときはそれを喜捨枠に移せば解決だ。自分が捨てたことで誰かがその分負担が減って喜んで幸せになったということだ。そう考えたらすっきり。今月の喜捨枠予算も消化できた。万歳!

 

人生を豊かに、幸せにするには誰かに分け与える、Giveすることが重要だ。しかし、GIveといっても多くの人は何をしていいかわからず結果何も好転しないことがほとんどた。そこに人類の叡智である宗教の喜捨の概念を取り込み、所得の2.5%を毎月喜捨するプロトコルで運用するようにする。それだけでずっと人生が良くなる気がしないだろうか?

 

所得の2.5%を喜捨したら人はもっと幸せになれる

 

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