人には心の中でそれを求めていてそれをするだけで時間の流れが変わるような気持ちになるものがある。
ある人には散歩だったり、キャッチボールだったり、スポーツだったり、趣味だったり。
なんだか時間が経つのがいつもより早いな、と感じるようなものだ。
そこにはあぁ、やりたくないけどやらなきゃ。。。というプレッシャーはないし、こんなことしてて意味あるのかな、恥ずかしいなぁという他人からの目もない。ただただ没頭だけが存在する。
そして不思議なことにそういう没頭できるなにかを通じて出会った出来事や人間というのはずっと記憶に残り他の人間関係よりずっと親密に継続的なものになれる。
そういうものを見つけられたら人生は幸せなんだと思う。
私にとってそれはなんだろう? と考えたらそれは自分の頭の中にある文章を書いて誰かに読んでもらうことのように思った。
同じような出来事でも楽観的な人と悲観的な人が存在していて、その違いは何かという分析をした実験で、楽観的な人とと不幸でない人は物事の説明の仕方が異なる、というデータが存在するそうだ。
有名な、コップに水が半分しかない、と言うのか、半分もある、と表現するかというものだ。
つまるところどんな出来事や事象もも説明の仕方次第では人は悲劇にも喜劇にもなりうるということだ。
これはなんて愉快ことなんだろうか。
笑いとばすだけで、不幸も幸せになるのであれば、不甲斐ない哀れな自分を呵(わら)ってやりたくはないか? 時に目を背けたくなるような残酷なこの社会と大衆をアジってやりたいではないか? この時間を忘れて没頭できる文章録で。
そんな思いを込めて文章を連ねる文章録を呵自記と名付けて初めて見ることにしたのでした。